ゆとり教育との決別、そしてその後

私の子供達の学校の時刻表をのぞいて見ますと、我々の頃より、ホームルームや委員会活動などの時間が多く、いわゆる基礎教科(国・数・英・理・社)の時間が少ないような気がします。

先月だったか、先々月だったか記憶が定かではないですが、馳浩文部科学相が「ゆとり教育」に決別宣言しました。ゆとり教育はすでにとっくに否定されていますが、それを安倍政権が決別宣言した事は象徴的なことだと思います。

私はゆとり教育が提言された時、それを評価する一方で、決してうまくいかないと思っていました。それはなぜか、それはゆとり教育と受験競争は両立しないからです。ゆとり教育をこの国に根づかせるためには受験競争をなくさなければいけからです。

しかし、受験競争をなくすということは、この国から学歴主義をなくすということ。ところが誰も学歴主義をなくそうとはしません。なぜでしょう?やはり、学歴主義はこの国の一部の指導者層のよりどころだからだと思います。

そして、子を持つ親は誰もが自分の子には高学歴を持たせたがります。中には自分の見栄の為に子供に高学歴を願う親もいるほどです。つまりこの国は、国民をあげて受験競争から抜け出せないのが現実だからです。

私自身も受験競争は無くなった方がいいと思っていますが、受験競争は勝った者が、それはよくない事だと考えて、本気でなくそうとしなければなくならないのではないでしょうか。

それはあたかもこの国の政治そのものを表しているようです。政権交代の繰り返しでは政治はよくならない事を我々は民主党の失敗を見て知りました。政治は、権力を握った者が正しい政治を行うようにならなくては、いつまでたってもよくなりません。

そして、官僚の中にも良識な官僚はいるはずなので、その官僚を活かして、国民の為の政治をしなければいけないと考える政治家が政権の中から出てこなければいけないと思います。

日本や世界を覆っているこの閉塞感。ノブレスオブリージュ(地位あるものにはより高い徳が求められる)の政治が実現されなければいけない時期にきているのです。今度の参議院選挙で少しでも志のある政治家が出てくることを願います。