3.11

午後2時46分震災発生時刻、気仙沼方向を向いての黙祷
午後2時46分震災発生時刻、気仙沼方向を向いての黙祷

絶望の日。決して忘れることのできない日。生きていることに感謝する日。人生が劇的に変わった日。思い出したくない日。etc・・・・・。今日という日を形容する言葉は人それぞれだと思います。

一言で表すのは非常に難しいのですが、あえて表現するとすれば私の場合「生かされた日」になると思います。当日のことをよく思い出してみると本能なのかはわかりませんが、全ての行動が生き抜くために行動していたように感じます。当時は私は専務の役職でしたが、今でも地震後の判断は間違っていないと確信していることが一つだけあります。それは、全従業員と両親を助けたことです。今までに経験したことのない地震の揺れにより必ず津波が来ると直感し、工場内にいる従業員が心配になり様子を見に行くと、機械は横転するは、天井は落ちてくるは、床は亀裂が入るやら、悲惨な状況でした。後片付けには何日かかるだろうという状況でしたが、従業員に対して「一切手をつけるな!今すぐ自宅に帰りなさい」と指示したことです。この一瞬の素早い対応が弊社の全従業員が一命をとりとめる結果となりました。そして、私の両親も地震で腰を抜かしていたのですが、なんとか車で逃がして事なきを得たのです。気仙沼の丸光製麺(当時は丸光食品)の周りには住宅や水産会社など所せましと密集していましたが、後に聞いたところ、どの家もどの会社も誰かしらお亡くなりになっているとのことでした。私は会社にいた全従業員と両親の命を奇跡的に救ったと今でも思っています。

しかし、ここまではみんな助かって良かったのですが、私自身の安全はどうっだたのでしょうか?おそらく、あの方々がいなければ私はきっと故人になっていたでしょう。みんなを避難させ、私一人だったらおそらく後片付けや大切な書類を探したりしていたことでしょう。津波が来ることは予想していましたが、1階が浸水するぐらいで、大切な書類などは2階に移動させれば大丈夫と考えていました。しかし実際の津波は10mクラスで、3階建でも水没する高さです。今考えると背筋が凍る思いです。そして、その私を救っていただいたのは、東京の船井総合研究所の新井拓さんと中野一平さんのお二人で、震災発生時は正に弊社の事務所で二人のコンサルタントを受けていた最中だったのです。なぜこのお二人に助けられたかというと、このお二人は気仙沼の土地勘がないので私が避難させなければならず、私はまず従業員と両親を避難させたあとお二人を気仙沼駅まで送っていこうと考えました。その行動が結局、自分自身を助けることに繋がるのです。駅に向かう車は途中で渋滞に巻き込まれ一歩も進まない状況でした。時間だけが刻々と無情に過ぎていき、私は相当あせっていました。その時、新井さんが「熊谷専務、この辺も津波がきますか?」と言ったのです。その一言を聞いて私は瞬時に「車を乗り捨てて徒歩で避難します。」そう言って、車を路肩に止めて駆け足で高台に向かって避難しました。土地勘のないお二人をなんとか助けなくてはとの想いで車を捨てた判断は正しかったと、今生きてこのブログを書いていることが何よりの証明です。避難所になった気仙沼小学校に向かうと方々から避難してきた方々が「もう津波が到達して戻ることができない。」と口々に言っているのを聞いて、車を捨てていなかったらと思うと3人とも今頃は・・・。考えるだけで身震いしてしまいます。その後、私はお二人を避難所に残して、2人の子供達を迎えに松岩小学校に向かったのです。子供達は学校内にいれば無事でいるだろうと思ったのですが、やはり顔を見るまでは気が気ではありません。なんとか徒歩で海岸を通らず遠回りで1時間歩いて子供達を迎えに行き無事再会することが出来ました。あとは、妻だけが心配でしたが、その日は仕事で内陸の方に車で行っていたので津波の心配はなかったのですが、帰路、道路の陥没やらで気仙沼に到着したのが深夜になってしまいました。

以上が私の家族・会社の3.11の様子です。

命の恩人の新井さんと中野さんとはその後もメールで近況を報告し合っていましたが、震災後の5月、新井さんは自宅で突然死で亡くなりました。それを聞いた時、私は愕然として言葉を失ってしまいました。そして、涙が次から次へと溢れ出し止めることができませんでした。「もしかすると新井さんは俺の身代わりに?」なんて考えることもありました。突然死なので原因は定かではありませんが、確実に言えることは、私は新井さんと中野さんに助けられたという事実です。中野さんは今でも第一線のコンサルタントとして船井総合研究所で活躍しています。

震災後は父親から社長を引き継ぎ、再建に向けて東奔西走しましたが、一関工場をオープンすることを決断した時や、そして再開後もなかなか売上が回復しない中、経営に行き詰った時や、弱気になった時は、新井さんの言葉を思い出し、自分を鼓舞することがあります。彼の言葉で思い出すのは「過去オール善、常に今は必要、必然、ベスト」「どんなどん底でも、きっと活路は見いだせる」です。いつも私に合うと「丸光はこれから良くなりますよ」とあの人懐っこい笑顔で言ってくれるので、私は彼に合うといつも自分のモチベーションが上がっていくのがはっきり解るのです。震災から1年が過ぎた日に、東京の新井さんのお宅にお線香をあげに妻と二人の子供といってきました。奥さんは私の方が主人の命の恩人だと思われていて、震災の時の状況をお話して、「私が新井さんに助けられたのですよ。」と話すと奥さんは「そう思っていただけると新井もきっと喜んでいますよ。」とおっしゃるのです。妻と涙が止まりませんでした。やはり私はあの震災から「生かされた」のです。そして、丸光製麺を再建して軌道に乗せなければいけないのです。今後とも各方面の皆さんに助けられながら、また新井さんに対しても恥ずかしくないような経営者にならなくてはと気持ちを新たにしたところです。

今日は初めて震災の時のことを自分なりに整理して文章にしてみました。新井さんのあの笑顔を思い出しながら・・・。